ACA Retreat

回復へのステップワーク

以下は、三日泊りがけで行ったACAの集いに参加し自宅に帰ってきた翌日にアメリカの友人に宛てて書いたメールの内容です。一つの節目になる自分の正直な気持ちが綴られていて、これからもこの気持ちを忘れないで生きたいと思い自分ための覚書としてここに残しておきたくてアップします。

思っているだけでは伝わらない、自分のできる範囲でいいから恐れず表現する事の大切さを学んで帰ってきたところです。

初めて参加したACA RETREATは、正直言ってやっぱり緊張しました。
まず、まるっきり知らないところに一人で地図を片手に行くこと。

次に初めて会う全く知らない人達と三日間寝泊まりする事。
日本人どころか、アジア人は私一人だけでした。

でも、不思議と『みんな同じ悩みを抱えてここに来ている』という気持ちが心の壁を取り払ってくれたのか、意外にもすんなり話しかけることができました。
みんな回復レベルが違うのでバリアーが硬くて近づけない人もいたけど、それはそれで「拒否」されたんじゃなくて、『この人の安全と感じるバウンダリーが広いから、遠くに感じるだけ』と、自分を傷つけずにすんなりと理解できました。

何十年もステップワークに取り組んでいて回復が進んでいる人は、自分の感情を表現する事、そして他者に対する共感を示すことを恐れない強さを持っていることにも感銘を受けました。
娘の自死からの回復の旅の途中で自分がACAであることから生じる諸所の問題に気づきこのRetreatに参加したこと、そして、後に残される者の地獄の苦しみを知る私には自死という道は残されておらず、その娘が選んだ手段とは違う方法で心の安らぎを探さなければいけないのだと気付きACAの12ステップに取り組んでいることを正直に話した時のことです。
何も語らずとも、私をまっすぐに見つめるその人の目からこぼれ落ちる涙にどんなに救われたことか…
その人たちの「思いやり」と、他者の悲しみのために涙できる「強さ」「優しさ」にとても癒される思いでした。

ありのままの自分を受け入れ愛せるようになると、他者に対する接し方も変わるんですね(^_^.)

Mingus Mountainキャンプ場というところにも初めて行ったのですが、Phoenixから車で一時間半ほどのところにあるとは考えられないぐらい緑が多く、山の上という事もありキャンプ場自体が深い山に隠れるようにあって、昔子供の頃に過ごした幸せな時間を彷彿とさせ、とっても穏やかな空気が流れ気持ちの良い所でした。
私の父は伐採を生業としていたので、私が小学校に上がるまで、山奥の小屋で多くの他の木こりさん達と寝泊まりを一緒にしていたんです。
思えば、あの頃が自分にとって一番幸せな時間でした。
父もお酒を飲んで暴れることがなかったし、母も周りにいつも他の人がいたからヒステリー起こして子供だった私と弟に八つ当たりし怒鳴ることもなかったし・・・(^_^;)

この三日の間は、たくさんのセミナーや、メデテーション、そしてプレゼンテーションがあり、かつ、自助グループのミーティングもあって、とっても濃い時間でした。
私にとって一番好きな時間だったのは、自然を感じる時間とご飯の時間!(#^.^#)!
何にもしなくても、仲間のボランティアが作ってくれたおいしいごはんが用意されデザートまで!、そしてたくさんの人と一緒に食べるご飯はとてもおいしかった~
話したくなければ話さなくていい、でも、他の人が話をしているのを聞き、ダイニングホール全体が話し声や笑い声で満たされているのを感じて『心に傷を持つ人たちがこうして集い、癒しと心の安らぎを探し一生懸命生きている、私一人じゃない、自分は一人ぼっちじゃない』と感じることができ嬉しかったのだと思います。

皮肉な話ですが、娘を失い『自死遺族』というアメリカで自分が所属できる場所を見つけ、今また『ACA』という問題を抱えていることで、自分が居てもいい場所を見つけました。
『日本人であること』も思えばその一つですね(^_^)
生まれ育った「家族」という、その人の基本となる「安心して属する事ができる場所」の記憶がない私には、どこに行っても不安から逃れることができず、人から一目置かれる「立派な人」になることで不安を抑え込もうとしていたように思います。

人は社会的生き物だから、一人では生きていけないのだとつくづく感じるこの頃です。
ところが、これまではその「人」を恐れ「社会」に加わることができずに苦しんできました。
なぜなのか、どうして自分はそうなのかわからず苦しんできました。
ACAの回復プログラムに出会うまでは「自分が悪いから、自分が劣っているから、自分がおかしいから」と、そう思いこむことが一番納得がいきました。
と、いうのも親を否定し怒りでもって生きていくことは自分にはできなかったからです。
それより、自分を責めることの方が容易かったのです。
なぜなら、自分が悪いのであれば、「自分が頑張る」ことで解決できる、コントロールできると思えたから…
でも、今「それは誰のせいでもない」と、心の底から思うことができます。
完璧なんてありはしない、この世には自分が頑張って何とかなるものもあれば、どうすることもできないこともあると。

だからと言って自分が犯した過ちが許されるものだとは思っていません。
それが、たとえ無意識に自分を守るため、生き延びるためのものであったとしても、離婚、そしてその十数年後に再婚でアメリカに渡ったことは、子供たちにとって「親から見捨てられた」と感じるに十分な出来事だったと思うからです。
私はそんなつもりではなかった、としても、です。

その時その時を生きるために、または、不安や恐怖から逃れるために必死でその時の自分ができるベストのベストを尽くしていたこと、それは間違いのない事実です。
でも、ある時はそれが取り返しのつかない結果を招き、一生後悔するような結果を引き起こす…
それでも、逃げることなく悲しみと向き合い、喪失から愛を見つける。
周囲の人のリアクションを恐れず抱える悲嘆を隠さず、しかし同時に、他者に対する思いやりも忘れず、痛みを受け入れ、その痛みと共に生きる道を模索し、そのことを通して「愛することを恐れない」「失うことを恐れない」ことを学ぶことができるのかな、ということをかすかですが知ることができたように思います。

娘を失うまで「私は一人でも生きていける」と、強がっていたのは、失うことを恐れていたから、助けを求めることで他者の拒否にあうことを恐れていたからです。
他者から拒否されたとしても自分が自分を拒否しなければ、それで良いのだと気づきました。
それでも、この道は遠く果てしなく、ずっとずっと続く「毎日がありのままの自分を受け入れあるがままを受け入れる練習」の旅ですが…(^_^.)

今回のRetreat、頑張って参加して良かったなあと思います。

はい、正直「すごーく疲れました」(^o^)
今日はヨガもお休み、一日ゴロゴロして寝て過ごします。
あー、自分が作らなくてもおいしいごはんが私を待っていてくれたあのダイニングホールが恋しいわ~(笑)

長くなりました。

それでは、また

追記: 自分の事で精一杯で、 コメントを寄せてくださる皆様に返事を書く余裕がないときがこれからも多々あると思います。「わたくしごと」の徒然記である本来のブログの趣旨に立ち戻って、これからは時に説明不足で読み手には意味不明な内容もあるかもしれませんが、自分の思ったこと感じたことを自分のために書き残しておきたいと感じた時だけぼちぼちと書いていけたらと思います。

ACA Retreat」への3件のフィードバック

  1. KikiさんのACA Retreat、覚え書きとしてオープンにされたこと、なんと言っていいか考えますが、すごいです。このブログ自体そうですがオープンであること、それがKikiさんの回復の歩みでもあるし、結果的に私達への「支援」にもなっていて。
    パウンダリーの他者との違い、回復過程の違い、痛み(悼み)を持つことで逆にbelongingが出来てきたこと。私がこれから歩む人生の指針になりそうなことが。私、やっぱり間違えてきたなと思うし、というか無知だったのだと思います。自分の求めた愛情がもらえなかった、そこからくる人や愛情への誤解、無知がたくさんあったのだと思いました。
    まだ立ち止まって、深呼吸して、今、今日だけを見つめて生きます。焦らず、ゆっくり、小さなことから。ACAの棚卸しも、少しずつ。

  2. kikiさん
    お久しぶりです。ハリケーンを心配していました。
    いろいろ参加されていたのですね。
    コメント気になさらず、そこにいてくださり、歩く道をただ見せていただくことが、ありがたく思います。

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