辛いのにどうして子供が死んだ事実と向き合わなければいけないのか

わが子が死んでもう戻っては来ないのだという事実を感情的にも受け入れるということはどういうことなのか

娘が死んでしまってから生きることがどうにも辛く苦しくそれまでの自分を無くしてしまった私はなんとかしてもう一度前を向いて歩けるようになりたいと必死でこれまで生きてきました。最初の頃は、本当に息をするだけでも苦しくて文字通り心臓が痛く、とにかく「この苦しみから誰か救って!」という気持ちから、わらにもすがる気持ちで手当たり次第に助けになるかもしれないものに手を伸ばしました。

それは、自死遺族のセルフサポートグループに参加することであり、本を読むことであり、カウンセラーに会うことであり、同じ自死遺族のお母さんたちと交流することでした。残念ながら私の会ったカウンセラーは自死遺族のグリーフセラピーに精通していなかったため、私の助けにはなりませんでしたが、自死遺族参加とグリーフ関連図書を読むこと、そして同じ痛みを知る人たちとの交流は今の私にとって命綱のような存在になっています。

娘の自死という人生最悪の日から一年半が過ぎようとする今、あの気も狂わんばかりの激しい悲しみは遠のき、最近では娘のことを考えていない時間もあるのです。悲しみが襲ってこないというわけではないのですが、その頻度と震度が変わってきたというか・・・。

以前は自分の意志にかかわらず娘の死が頭の中をかけめぐり目の前に映っている物は見えずただただ娘のことや死について考え話すだけでした。外に出かけ人と会っても顔は笑っているものの心はそこにはありませんでした。そして、その偽りの時間が過ぎればまた元の暗黒の世界に戻って行ったのです。

娘の死から半年が過ぎたころでしょうか、最初の切り裂かれるような痛みは徐々に遠のき今度は言い表しようのない孤独と不安を感じるようになりました。そんな時、自助グループに参加して心にあるものを涙とともに吐き出し、グループのメンバーから受容してもらい「一人じゃない、自分はこれでもいいんだ」という感じることができ救われました。仲間からの受容と心の中の闇を語り始めたことは私にとって転機となりました。

最近は、外に出かけても、仕事をしていても娘はいつも自分と一緒だという感覚を持ち続けることができ、娘の死から逃げ出すためではなくなりました。なんといえばいいのか、娘はいつでも自分のどこかにいるのですが、娘の死にコントロールされているのではなく、自分が自分の中心にいるのです。そして、娘のことを思いたいときは心の引き出しを開けて娘との思い出に浸り涙する、そんな感じです・・・ 恐怖と不安が立ち去り、心の中の娘と会話が始まったのです。亡くなった娘との新しい形の絆が育ち始めたのかもしれません。

遺族が自分の人生を生きていくために取り組む四つの課題

これまでに本当にたくさんの本を読みました。最初の頃は、同じ経験をした人の話を収録した本が私を救ってくれました。そのあとは、グリーフプロセス(喪失との向き合い方)について語られた本が私を支えてくれました。もし、導いてくれる良いカウンセラーさんに出会えていたら本にしがみつかなくても良かったのかもしれませんが、なんとか痛みと共に生きる道を探そうと暗中模索する中でどうしても道しるべが必要だったのです。

アリゾナ大学在学中に心理学の授業で習った教科書には「近親者を亡くした人が普通の反応として通過する四つのステージ」というもの書かれていました。それは、以下のような内容です。

  1. 茫然自失ステージ 数時間から一週間ほど続き、茫然とする中、時折強い悲しみ、パニック、怒りの感情が押し寄せる
  2. 不安と抑うつステージ 亡くなった人の面影を探したり会いたいと切望する。数週間から数か月続き、絶えず動いていないと落ち着かない、眠れない、故人のことが頭から離れない、または故人に怒りを感じるなどの遺族特有の症状が現れる
  3. 混乱ステージ 故人は戻ってこないと受け入れ故人がいなくなってしまった後の自分のアイデンティティーを確立する時期だが、大うつ病の症状に似通た精神状態を示す場合もある
  4. 再建ステージ 悲しみの和らぎを感じ、人生の再構築に取り組み、生活意欲が戻り始める

自分の体験からしても確かにこのような気持ちの変化があるように感じますが、ステージ4にはたどり着いてはいないし、1、2、3のそれぞれのステージも段階的ではなく、どちらかというと重なり合って起こり、一日の内でもステージ1だったり、2だったり、3だったり、その三つがごちゃ混ぜになって訪れたりと、振り子のように左右に揺れながらようやくその振幅幅が小さくなって日によってはステージ4にまで来たように感じるときもあるかなと感じる程度です。

これだけ見ると、時間が経過すれば自然とこのように事が進むと感じますが、これまでに出会ったたくさんの自死遺族の話、自分自身が経験していることなどを踏まえ考えると、そんな単純なものではないというのが自分の正直な気持ちです。特に自死遺族の場合ステージ3、そして4へと進む以前に2で立ち往生してしまう遺族が多いのではないかと感じます。そして、いつかステージ4にたどり着けるとしてもその期間は一般の人がよく考える「六ヶ月もすれば普通の暮らしに戻れる」などというたやすいものではなく何年もかかるのが普通なのではないかと感じています。

このステージ説より、私個人としてはJ. William Wordenが提唱する「取り組むべき四つの課題」がしっくりきて納得できる気がします。その四つの課題とは、

  1. 課題1: 喪失という現実を受け入れる (亡くなったという事実を頭だけではなく心から受け入れ、もう二度と愛する人は戻っては来ないのだいう現実を認める)
  2. 課題2: 喪失に伴う心の痛みを感じ自分なりに表現する
  3. 課題3: 故人のいない世界に適応する
  4. 課題4: 故人との心の絆をはぐくみ、かつ、自分の人生の再編成をおこなう

Wordenが「段階」ではなく、あえて「課題」と表現したのは、時間の経過と共に直線的に起こる現象ではなく、行ったり来たりしながら、最終的に四つの課題をクリアすることがゴールだと考えているからです。そして、その中でも最初に取り組むべき課題は1であるとしています。それというのも、愛する人が亡くなったという事実を認め受け入れられない限り喪失に伴う様々な感情を解き放すことができず、そこから一歩も前に進めなくなってしまうからだと説明しています。

怖いのは、喪失に伴う感情と向き合うことなく心の奥底に押し込んでしまっても、その感情がどこにもいかず何年でも何十年でも生のまま心の奥底にとどまり、本人も説明のつかない不安感や抑うつ感、または体の不調となり表出するということです。そして、問題なのは、このような人は表面的には「悲しみからすばやく立ち直り前向きに生き社会にうまく適応している」かのように他者には映るため周囲の人からはその人の苦悩が見えず、本人もなぜ時折非常に心が沈んで無力感や絶望感に襲われるのかわからずに状態が悪化してしまうことがあるということです。

喪失という現実を受け入れる

Wordenだけではなく、これまでに読んだたくさんの自死遺族サポート関係図書にもこの「喪失を受け入れる」ということが回復への第一歩のように書かれているものが多々ありました。それでは「受け入れる」ということはどういうことなのでしょうか。

私は、最初『喪失を受け入れない人とは、わが子は死んだのではない旅行に行って帰ってこないのだと信じている』と言うような人だけをさして「死を受け入れていない」と言うのだと考え、『自分はそんなことはない、最初から娘の自死を受け入れているし、だからこそ嘆き悲しんできた』と考えていました。でも、気が付いてみると頭では娘の死を受け入れていても感情が追いついていない時期があったのです。娘の死自体を否定したい自分がいたのです。

例えば、最初の数週間、娘の死後も私は娘が自らの命を絶つなんて信じられず「自殺したに違いない」と思う一方「車にはねられたんじゃないか」「誤って川に落ちたんじゃないか」挙句の果てには「誰かに突き落とされたのかも」などと頭の隅で考えていたのです。そして、頭では「娘は死んだ」とわかっていても、心の奥底では「娘のために何かしてあげたら娘は帰ってくるのでは」と無意識の意識下で感じていたようで必死になって娘のために娘が喜ぶようなことをしようとしていました。

また、死の原因を何度も何度も考えていました。ああ言っていたら、こうしていたら、娘は死ななかったかもしれない。そして、娘が生きていた時に私宛に書いたたくさんのメールを読み返しては何かわかるかもと感じ、かつ、娘が生きて東京にいるようにも時折感じていました。頭では「こんなことしたって無駄だ、原因がわかっても今更なんになる」とわかっていても、考えずにはいられなかったのです。まるで、原因がわかれば問題は解決されて娘が帰ってくるとでもいうかのように…。そして、理性では娘の死をわかっているので時折狂ったように泣いてもいました。理性と感情がかい離した混乱状態です。

あまりの辛さから、娘の死から四か月して自助グループに参加しました。参加すること自体とても勇気のいることでした。しかし、そうやって言葉にして娘の死を語り始めたころから、徐々に心も娘の死を受け入れ始めたのだと思います。『どんなにしても娘は帰ってこないのだ』と・・・。それと同時に関を切ったように悲痛な叫びと悲しみが涙と共に溢れました。課題1と課題2を行ったり来たりしながら時には一生懸命課題2に取り組み、そしてその産物として課題1の作業も進む、そんな時もありました。

とても苦しい時期でした。日によっては不安や抑うつ状態に陥り、一歩も前に進めず、それどころかどんどん後退していくように感じられる時期もありました。その時期は、直接的ではないものの周囲の人からの言葉や態度による「いつまでも悲しむのは間違っている、いつまでも自分を憐れんで泣いて何になる」というメッセージを感じていた頃です。それはアリゾナから離れ保守的なオハイオの小さな町で暮らしていた時であり、自助グループや友達からのサポートシステムを失っていた時期でもあります。

この頃には娘の自死を受け入れ始めていたので喪失感に伴う感情が津波のように押し寄せもう自分一人では抑えきれなく、言葉にして話し誰かに聞いてもらいたいのに共感を持って聞いてくれる人が周りに誰もおらず再生に向けて進み始めた私には最悪の環境でした。そのためそれ以上傷つくのを恐れ人に会えなくなり、結果として家の外に出られなくなり引きこもってしまいました。

『周りの人は娘の死などないかのようにふるまう、いっそ自分も娘の死などなかったと思えたら楽なんじゃないか、否定してしまったら悲しまなくてもいいのではないか』と考えたり、立ち直れていないと感じそういう自分が情けなく死にたくもなりました。

現実を否定し逃避しようとすると鬱になる?

では、どうして否定してしまったら悪いのでしょうか。なぜ、辛くても現実と向き合い、死を受け入れないといけないのでしょう。

先日夫と話していてそのことを説明するのに、自分でもうまく説明できなくて困ってしまいました。亡くなった娘は前の夫との間にできた子であり、娘が大学に入り家を離れてから今の夫と結婚しているので夫にとって私の娘はそれほど身近な存在ではありませんでした。また、夫は自分の子供を持ったことがありませんし、両親も健在で元気です。身近な人を突然亡くすというような経験もしたことがないのでこれまでに大きな喪失感を味わったことがないのです。そこで、車好きな夫のために車を例にして話してみることにしました。

「ものすごーく貴重で世界にたった一つしかない車で、大切にして心を込めてメンテナンスをして傷一つつかないようにいつも心配りをしていた愛車があったと思ってみて。そのあなたの愛車が、ある日突然動かなくなってしまった。壊れてしまったのよ。でも、あなたはまた動くんじゃないかとあれこれ原因を考えてみて、その動かない車を修理しようと必死になる。でも、どうがんばっても車は動かないの。死んじゃったのよ。

でも、簡単にはそんな悲惨な現実をと受け入れられないから、毎日必死になって原因を考え、なんとか元通りにしたいと思うの。失いたくないからね。でも、そうすることによって徐々に『もう二度と元通りにはならないんだ』って現実を受け入れるの。つまり喪失を受け入れる。そうすることによって初めて心の底から悲しみがこみあげてくるのよ。それから涙が枯れるまで泣く。

もう十分悲しんだある日、死んじゃった車をこのままにして車庫に保管していてもどうにもならないと感じ、車庫から出して記念館に保存することにするの。そうすれば会いたくなった時にいつでも愛車に会いに行けるし、動かない車で車庫を占有されることもなくなる。

(これが健全なグリーフなのだと思います。つまり、喪失ととことん向き合い悲しみを押し殺すことなく表現することによって亡くした者との物理的世界を超えた精神的なつながりを深め永遠に壊れない絆を見つける作業…。痛みの伴う苦しい作業だけれど、とても大切な作業なのだと思います。)

ところが、車は死んじゃってもう元には戻らにいという現実を受け入れないとしたら、どうすると思う? たぶん『明日になったら元通りになってるかもしれないから今日は考えないようにしよう』って不安だけど何もしないで車庫の扉を閉めるでしょ。そして、次の日にまた見に行ってみる。でも、やっぱり動かないのよ。でも、共にドライブを楽しんだ愛車を失ったことを信じたくないから、やっぱり何も見なかったことにして車庫の扉を閉める。そのうち見ること自体不快になって車庫を開けることもしなくなる。動かないという現実を見たくないから。でも、喪失に対する不安は残るのよ。そして、いつの間にか車庫の中に何があるのかさえわからなくなる。ただ、近くによるととても不安な感情だけがこみあげて、そのせいで抑うつも感じるようになるんだわ。その不安はものすごく大きいものなのよ。ほら、ホラー映画で実際の恐怖シーンよりいつ起きるんだろうって考えているときのほうが不安を増大させるでしょ、きっとそんな恐怖だと思う。

そして、きっと、これが喪失という現実を否定しちゃったら悪い理由なんだと思う。車庫は心の例え。車庫の扉が閉まってしまった状態は、心が閉じてしまった状態の例え。無くしたんだという現実を受け入れないから、嘆き悲しむこともできない。心は宙ぶらりんのままその時間に止まってしまうんだと思う。でも、心の奥深くでは愛車が動かなくなってしまったことを知っているから、その事実を受け入れることが怖くなって不安と恐れとなってその感情だけが時々浮上してくるんだと思う。でも、時間が経てば経つほどなんでそんな不安や抑うつを感じるのかその原因はわからなくなってしまうんだと思う」

夫は、なんとくわかったようでした。

そして、それから数日した日のこと、私の心の車庫には実はもっとたくさんの過去の喪失に伴う負の感情が隠れていたことが発覚したのです。

過去の喪失とも向き合う

考えてみると私は今回娘を失うまできちんと自分の感情に向き合ったことがありませんでした。前述した「現実を否定し、なかったことにする」まではいってなかったものの「見ない、感じない」ようにして社会に適応しようとずっと頑張っていました。

親も、そして周りのものみなから「過去の事を嘆いていたって仕方ないんだから、泣かずに頑張れ」というメッセージを送り続けられ「悲しいときは泣いていいんだよ、だって大切なものとお別れしなくちゃいけないんだもの」と言って私の感情の解放を手伝ってくれる人は誰一人としていなかったのです。

その結果、喪失から生じた悲しみ、絶望、怒り、恐れなどという負の感情は心の奥底に何も変わらないままで何十年もとどまり、いつのまにか抑うつや体の不調となって現れていたのです。そして、私自身どうして時折ひどく落ち込むのかわからないでいました。

その一つが、子供の頃に父から受けた体罰でした。父はとても良い人でしたが、お酒を飲むと性格が激変してしまう人でした。母はそんな父に良く殴られていました。家は貧乏で両親の夫婦げんかが絶えず泣き泣き部屋の隅で小さくなっていることも何度もありました。それでも、私は父が好きで愛していました。飲んでいない時の父はとても面白く楽しくて優しい「私の大好きなお父さん」でしたから。

ある日雑誌についてきた赤いプラスチックのレコードに何が入っているのかどうしても聞きたくて生まれて初めて父におねだりをしました。それまでは家が貧乏だということもあり何か欲しいものがあってもけっして「買って」と言わず我慢していたのです。「うちは、よそ様とは違うんだから我慢しなさい。欲しいものがあったら一生懸命働いて自分で稼いだお金で買いなさい」というのが母の口癖でした。それでも、なぜか私はその日どうしてもレコードプレーヤーが欲しくて父におねだりしてしまったのです。子供心に『お父さんのお酒より安いし、私はいつもいい子にしているし、これまでだってずっと欲しいものも我慢してきたのたがらこれ一つならお父さんもきっと許してくれる』と思ったのだと思います。

酔っていた父に死ぬほど殴られました。髪の毛をつかまれ外に引きづり出されたときは「自分は父親に殺されるんだ」とまで思いました。しかし、幸い夜風に父の酔いが醒めたのです。母も祖父も「お父さんは酔っていたんだから覚えてないよ。そもそもお前が我侭を言ってお父さんを怒らせたのが悪い」と父の所作を攻めることなく私に責任を押し付けたのです。そして、私は、あまりの悲しみと恐怖にその日のことをなかったことにしたのです。そうです、感情に蓋をしてしまったのです。

二つ目は小学校の頃の同級生からのいじめでした。私は平均より背が高く目立っていました。でも、大人しくてクラスの他の子供とはうまく付き合いができない子供でした。ただ、勉強は比較的良くできたのでいじめの格好の対象になってしまったのです。母に相談しても「やられたらやりかえしなさい。黙っていたらもっといじめられるだけだよ。強くないと生きていけないよ」と言われるだけでした。今と違って当時は『いじめられる子に問題がある』と言われる時代だったのです。

それからというもの、全ての悲しみを押し殺し決して涙をみせず「誰よりも強くならねば」と必死に生きてきたのです。

それが、最初は体の不調となって現れるようになり、30過ぎたころには抑うつ症となって私を悩ませるようになりました。でもその時は原因がわかりませんでした。あまりに辛いのでその時職場のカウンセラーだった医師に相談しカウンセリングを受けるようになって始めて子供のころの辛い体験がトラウマとなっていたことがわかったのです。

そして「原因が分かったんだからこれで問題は解決した」と思っていたのです。現に子供のころから見ていた恐ろしい悪夢は二度と見なくなりました。でも、そうではありませんでした。その時に抱いた感情の解放がなされていなかったのです。つまり、悲しみをちゃんと表現していなかったのです。それが、娘の自死が引き金となって感情のふたが開き顔を出すようになったのです。それは、夫の些細な言動によっても蘇りました。最初は、「どうしてこんな些細なことに自分はひどく動揺したり落ち込んだりするんだろ」と不思議でたまりませんでした。そのうち、夫がどんどん憎くらしく見えてきたのです。そして、その感情を否定しようとすればするほどひどい鬱に陥る、その繰り返しになりました。論理的に考えれば夫に瑕疵はなくどう考えても私の不適当な過剰反応です。

このような経験を何度も繰り返し、初めて「ひどく落ち込み悲しくなるのは娘の自死だけが原因ではない」と気付いたのはごく最近のことです。夫に対して感じていたと思った負の感情は実は父に対してでした。父は五年前に亡くなっているにもかかわらずです。そして、子供の頃の悲しみを理解しようともせず「頑張れ、泣くな、強くなれ」とばかり言う周囲の者への怒りでした。私の心の奥底には父に対する怒り、それまで信じていた「愛」を失った悲しみ、そして「自分はこんなにいい子になろうと我慢しているのに不公平だ」という世の中に対する悲嘆でした。不安と恐怖から不満を適切に表現することを学べず我慢することだけを学んだ私は感情を上手に表現できないだけでなく、上手に自分の欲求を伝えられない人間になってしまっていたのでした。

そして、様々な負の感情に蓋をしてしまったと同時に喜びや幸福感などと言う感情にも蓋をしてしまっていた事にも気がつきました。考えてみれば子供の頃から無邪気さがなく他の子供と距離を置く変に冷めた子供でした。大人になってからは、何も感じなくて良いようにとにかく自分を忙しくし表面上は笑顔で明るい正義感溢れるワーキングマザーを演じていました。子育てと仕事に忙しかったときはそれでよかったのです。忙しくしていれば頭の中は次にやることで占められていて何も感じずに済んだからです。

今、私は娘の自死と向き合うと同時に様々な過去の感情とも向き合わなければいけなくなりました。でも、恐らくは解放してあげることでこれまで時折襲われた意味の分からない不安や抑うつ感からもいつか解放されることでしょう。

あるグリーフカウンセラーがこう書いていました、

「喪失とは愛する人を亡くすことだけには限らない。それは、大切なものを失うこと、仕事を失うことであり、離婚であり、子供が巣立っていくことであり、家を失うことであり、長く暮らした土地を離れることであるかもしれない。その人にとってかけがえのない大切なものを失うとき、様々な感情に襲われる。それがグリーフであり、グリーフに取り組まず感情を否定してしまうと大変なことになる。たとえ表面上は社会に適応しているように見えても、その実その人の置き去りにされた負の感情は決して消えることなくくすぶり続け本人だけでなく周囲の者も不幸にする。それは、ほっとくと借金に利子がついて膨らむように気付いた時にはどうにもならないほど膨らんでいて処理に何十年もかかることになる。ゆえに、向き合うのが辛いからと言って喪失をなかったことにして否定してしまうことは危険なのだ」

どうして自分は他の子のように、他の人のように楽しいことをしても心から楽しめないのだろうとずっと思っていました。夫は「幸福感は心からの喜び」と表現するのに私にはそれがどんな感情なのかわかりませんでした。不安と安堵、そして平穏はずっと前からどんな感情か知っていました、でも、幸福とはどんな感情なのか実はわかっていませんでした。四十年以上も感情に蓋をして生きてきていたのです。何と悲しいことでしょう。

娘の自死は私に感情をもたらしました。深い悲しみです。そして、沢山の過去の喪失に伴う感情も・・・。

何年かかるかわかりません。でも、向き合わなくてはと思います。なぜなら、残りの人生を不安と抑うつ感にさいなまれながら生きたくないから。娘のように悲しみのどん底で死んでしまいたくないから…。今でもちょと油断すると暗闇に引きずり込まれそうになります。でも、悲しみを知ってこそ真の愛を知るのだと思い生きなくては、と、思います。娘の死を無駄にしないためにも…。

そして、いつか時が満ち娘に再会するときに「お母さんね、わかったことがあるんだよ。たくさん素晴らしい人に会ったんだよ。あなたに話したい美しい話がいっぱいあるんだよ」と心の底からの笑顔で言って聞かせたい、そう思います。

ドライフラワーとウィンドベル

娘の遺影に飾ったバラの花です。水揚げがうまくいかずしおれかけていたましたが捨てるには惜しくドライフラワーにしようと玄関軒先のウィンドチャイムに下げてみました。アリゾナはとても乾燥しているのでドライフラワーはあっという間にできてしまいます。どこかで娘が「なんでももったいながるのは、あいかわらずだねお母さん」と笑ってみている気がします。

 

辛いのにどうして子供が死んだ事実と向き合わなければいけないのか」への4件のフィードバック

  1. 先月息子が自死しました。悲しくて悲しくてどうにもならなくて、ここにたどり着きました。
    毎日、号泣しては息子に怒ったり、悲しんだりでめちゃくちゃです。仕事も休んでいます。復活しなくてはと思っても子どもが自死した教師という自分に耐えられそうにありません。
    死んだのは私のせいだと思っています。
    社会の事務的な手続きにいじめられている気分です。毎日がただつらいです。ネットで見ても、このつらさがずっと続くとあります。耐えられません。

    • banriさん、息子さんを亡くされたばかりと伺い、その中に合って色々な事務手続きを処理しなければいけない姿を想像し、どんなにか辛い気持ちでいらっしゃるかと思いをはせています。
      そうですね・・・、わが子を亡くした痛みは決して消えることはないです・・・、が、和らいでいきます。
      時間だけが立てば和らぐかと言えば、そうではないですが、苦しい道のりを一日一日歩いていく中で、最愛のわが子を自死で亡くした心の痛みと暮らしていけるようになっていくと言ったほうが正しいかもしれません。
      私の経験しかお話しできませんが、私はそうして行く過程で、娘の姿は見えなくなってしまったけれど、いつも傍にいてくれていることを感じられるようになり、ずいぶん生きることが楽になりました。
      そして、その愛のおかげで自分は昔の自分に比べて人の心の痛みがわかる人間になってきているように感じます。
      あまりの辛さに娘の後を追って死ぬことしか考えられなかったあの頃から思うと、毎日をこのように娘の愛を感じ穏やかに暮らせる日が来るなんて奇跡のように感じています。

      banriさん、一つだけ言えることは、息子さんの死は決してbanriさんのせいではないということです。
      誰のせいでもなく、周りの者には見えない鬱という病気によって息子さんは亡くなったんです。
      同じように生まれ、同じように成長しても、がんになって亡くなる人、そうでない人がいるように、持って生まれたものと環境要因で鬱になる人、ならない人がいます。
      そして癌より怖いのは、本人も周囲のものにもその病気の進行が見えない事です。

      今はご自分をどうしても責められると思います。
      それも、子を愛する者として当然のことで、この苦しみを経験することなくこの回復の道を歩いていくことは無理なのだということを経験から学びました。

      banriさんは、先生なのですね・・・お子さんを亡くされたばかりで仕事に戻られることはお辛いですね・・・
      今は、休めるだけ休み、今日一日を生きることだけに全力を向けてください。
      明日のことは明日考えるようにして・・・
      一人じゃないです、私たち皆、同じ道を歩いてきました。
      とにかく、眠れるときは眠り、食べられるものは食べ、お水をたくさん飲んで、どうかお体を大切にしてください。
      泣くと、水分がいります。

      今日を生きることそれだけを考えて生きてください、また日は昇ります。
      心が少しでも休まる時間が見つかるよう、遠くからですが祈ってます。

  2. kiki様

    こんばんは。 3月も半ばになり、季節は春に変わりつつありますが
    もう半年、まだ半年なのかよくわかりません。
    春が始まりの季節だからでしょうか、感情の波が容赦なく襲ってきます。
    時を止めた娘が不憫に思えてならないからかもしれません。、

    先月末より、なぜ?と考えないように心がけています。
    私がなぜ?なのと悲しむと娘が、もっと苦しんだり悲しんだりするように
    思えたからです。 いくら、考えても答えは、彼方で娘と会ったときにしか
    わからないだろうし、娘にもわからなくて突発的にこの選択をしてしまったのでは?と思えるようになりました。

    これは、逃避になるのかもしれませんが・・・
    その代わりに、ただただ逢いたい、声を聴きたい想いが増幅してしまいました。  半歩進んで百歩後退です。

    kiki様  もしよろしければ、アドレスを記載しましたので
    そちらに返信をお願いしてもよろしいでしょうか?
    今回の記事を読ませていただき、kiki様にご迷惑でなければ
    少しだけ私の想いを聞いていただければと思いました。

    よろしくお願いいたします。

    • リンさん、お便りありがとうございます。子供を亡くした人にとって三月は悲しい季節になってしまうような気がします。卒業式、入学式のシーズンだからかもしれません。春は私は寂しく感じます。冬が終わり命が芽吹く季節なのに、わが子の命はもう二度と生き生きと輝いて私のところに成長を告げにやってきてはくれない、その事実を再度認識しなければいけないからかもしれません。それでも今年は「ああ、それでも春はやってくる」と、咲き乱れる花々を見るとき悲しみの中にも命の輝きも見つけることができるようになりました。
       「なぜ?」「どうして?」と考えるのは自死遺族にとって皆さん共通しているように思います。私も散々悩まされました。私の場合は考えないようにしようとすると、頭の中に押し入ってくる考えや感情を抑え込むためものすごいエネルギーがいり、それどころか考えないようにしようとすればするほどかえってそこに意識が集中してしまうことがあって疲れ果てしまいました。それで、あきらめて頭の中に浮かぶままに考えそして答えを探しました。娘の遺影に向かって言葉にして「なんでお母さんより先に逝っちゃったのよ?お母さんは寂しくて悲しくて毎日泣いてるんだよ」と言ったこともあります。そうやって、とことん考え、自分なりの答えに行き着いたらもう「なぜ?」「どうして?」という言葉が頭の中に浮かんでこなくなりました。私がたどり着いた答えは「進行してしまった癌が人の命を奪うように、心の病も人の命を奪うことがある。そして、その痛みは私の想像を絶するほど激しく、痛みに耐えきれなくなった娘は死にたいというよりは、その痛みから解放されるために自らの命を絶ったのだ。娘はあまりの苦しさに『自分が死んだら他の人が悲しむ』なんて考えている余裕はなかったんだ」でした…。そして「娘を愛する人たちがその痛みをみんなで引き受けたから、娘はもう苦しんでない」って思いました。
       そんなとき、私を元気づけよう、励まそうとしてくれる人が時々「あなたがそんなにいつまでも悲しんでいると娘さんが心配してあの世にいけないよ」と声をかけてくれましたが、全く私の助けにはならずそれどころか逆に私を不安と恐怖に陥れました。「悲しんだらいけないの?悲しんだら娘は死んだ後も苦しむの?」と。それが原因でひどい鬱になってしまった時期がありました。悲しみの感情に蓋をしてしまおうとしたからかなあと思います。親は、たとえ子供が死んでも子供のことが心配なんです。それが当然で、それが親の愛だと思います。それを知らない周囲の無責任な言葉が子供を亡くした親を傷つけ再生の道を阻むのだと感じます。
       逃避も時に必要です。悲しみで疲労困憊しているとき休息も必要だと思うからです。グリーフワークは急いでも気持ちばかりがせいて前に進まない時があります。この厳しい旅は日程表のない旅です。行き止まりにたどり着いたら、少しそこで腰を下ろして地図を開きこれまで来た道を振り返ることも大切だと思います。無理やり前に進み崖から落ちるより良いのではないでしょうか。ちなみに私はその崖から落ちて死にそうになりました(^^;
       リンさん、アドレスをありがとうございます。早速そちらにも返信させていただきました。自分自身暗中模索する中、道に迷うことも多々ありで、とても他の人の手助けができるような人間ではありませんが、同じ痛みを知る者としてリンさんと共に支えあってこれからも生きていけたら幸いです。一人より二人、二人より三人、みんなで支えあったら転んでも傷ついても肩を貸しあい前に進めるのではないかと思います。

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